『艦これ』で新キャラが登場して雲竜など紹介しましたが、その続き。
■『艦これ』で新キャラ「雲竜」「磯風」「時津風」などが登場!
白露型駆逐艦 春雨
春雨(はるさめ)は、日本海軍の駆逐艦。白露型の5番艦である。この名を持つ日本海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「春雨」に続いて2隻目。
軽巡洋艦 大淀
太平洋戦争開戦前、海軍の対米戦計画では潜水艦部隊による敵主力艦隊の漸減邀撃が予定されていた。だが、広大な太平洋上を潜水艦単独で敵艦隊と接触交戦するのは困難であった。そこで潜水艦部隊の旗艦として新型の高速水上偵察機を搭載し、これにより最前線で強行偵察を行うことを目的とした偵察巡洋艦の建造が計画された[3]。
航空搭載能力が重視されたため、艦後部には主砲を装備せず、高速水上偵察機用の格納庫と大型の射出機を装備している(新造時)。計画では「大淀」、「仁淀」の二隻が建造される予定であったが太平洋戦争勃発のため「仁淀」は建造中止となる。なお、「仁淀」の艦名は後に海上自衛隊の護衛艦「によど」として陽の目を見る事になる。
駆逐艦 早霜
1942年度(マル急計画)仮称第345号艦として舞鶴海軍工廠で建造。1944年(昭和19年)2月20日に竣工して一等駆逐艦に類別される。
10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊(栗田健男中将・海兵38期)はリンガ泊地から出動し、ブルネイ湾(英語版)で補給の後、10月22日に出撃した。10月24日からのレイテ沖海戦では第一部隊に属して戦った。しかし、10月25日夕刻に爆撃を受けて損傷し、コロン島への単独回航を命ぜられた。一時は秋霜が護衛に就いたものの、燃料の補給のため分離していった。翌10月26日、ミンドロ島南方を航行中に第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の攻撃を受け、艦首部と艦中央部の命中弾によって艦首と二番煙突を吹き飛ばされ、沈没を防ぐためにセミララ島の浅瀬に擱座した[6]。
10月27日、レイテ島への輸送作戦からの帰途に空襲で沈没した軽巡洋艦鬼怒の救援のために派遣された駆逐艦不知火が、セミララ島の西方海域で空襲を受けて沈没し、早霜はその光景を目撃[7]。また、「早霜」の救援に来た藤波も、第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の攻撃により、カラミアン諸島北方のシブヤン海で戦没。藤波は25日に航行不能となった重巡洋艦鳥海の乗組員を救助していたが、藤波、鳥海ともに1人の生存者もいなかった。
4日後の11月1日、重巡洋艦那智の艦載機が擱座している早霜を発見して着水し、不知火、藤波の最期を聞きだした[8]。その後、早霜の船体は放棄された。アメリカ軍によるフィリピン奪回が進んで後、アメリカ海軍の調査班が擱座している早霜を調査したが[9]、早霜の船体がその後どうなったかは定かではない。
駆逐艦 清霜
清霜(きよしも)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型の19番艦である。
1942年度(マル急計画)仮称第347号艦として浦賀船渠で建造。1944年(昭和19年)5月15日に竣工して一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍となる。
12月24日、ミンドロ島のアメリカ軍に対する殴りこみ作戦「礼号作戦」が開始され、挺身部隊はこれに呼応してカムラン湾を出撃。2日後の12月26日21時15分、「清霜」はB-25の爆撃を受け、左舷中部に250キロ爆弾を受ける。重油タンクが破壊され左舷の機関は停止。また数分後には右舷の機関も停止し航行不能となった。艦尾が激しく沈下し船体全てから火災が発生した「清霜」は、23時15分に大爆発を起こして北緯12度38分 東経120度43分の地点で沈没した[21]。
「朝霜」は「清霜」が行方不明になった事を「霞」座乗の第二水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)に報告したが、木村少将は作戦終了後に救助するので海図に沈没位置を記しておくよう命令した[22]。やがて砲撃を終えた挺身部隊は、「霞」と「朝霜」を乗員の救助にあたらせるため残留させ、残りは先にカムラン湾に向かった。「霞」と「朝霜」は機関を止めて航空機と魚雷艇に警戒しつつ救助活動を行い、木村少将自ら双眼鏡越しに海上に浮かぶ「清霜」の乗員を数えた[23]。
1時間14分に及ぶ救助作業の末、白石長義司令以下91名が「霞」に、駆逐艦長梶本顗中佐以下167名が「朝霜」に、合計258名が救助された[23]。戦死および行方不明者は84名であったが、行方不明者のうちの5名はアメリカ魚雷艇に救助された[23]。